2010年6月25日金曜日

認識と、可能性と。

「認識するまでの間、それは存在しているのか!?」
というのが、最近のテーマです。


自分の知らないところでは、日々何かが起こり現実が動いていると思います。

サッカーで日本が勝ったり負けたり、
凶悪事件が発生したり、
株価が暴落したり、
知らないおじさんがスキップしてたり、
闇の権力が悪事を企てていたり。

仮に全て既に発生していたとしても、
自分が認識していなければ、それは発生していないことと等しいのでは?と思うのです。

また、
自分が認識するまでは、あらゆる可能性が存在するわけで。

量子力学の世界の
「シュレディンガーの猫」という実験では
だいぶハショって乱暴に説明すると
50%の確率で毒ガスが発生する装置の中に猫を入れておくと、
この猫は「生きている状態と、死んでいる状態が重なり合った状態」という解釈ができる。
というもの。
(この実験で表したいことは上記のことではないみたいですが。)

つまり、
事実を認知するまでは、あらゆる可能性が重なっている。と考えるべきで、
「どうせ、こういう結果になっているのだろう」という想像は、
あらゆる可能性の1つを選んでいるに過ぎないということ。

ま、簡単に言うと「思い込みよくない(・v・)」てことやけど。


「予測する」ということは、
人類の持つ特殊能力ではあります。
それは海馬が発達し、過去の記憶と照合して
「以前これはこうなったから、今回もこうなるだろう」
と、結果を過去と比較できるから。


なので、
ちびっ子が道路に飛び出すのも、過去の危機データが薄いからなのだろう。


しかし、
大人になると、過去から現在に至るまでにて
膨大な量の危機データベースが構築され、
あらゆる危機に反応するようになっています。

さらには、人は生命を守るべく、とりわけ「危機意識」に対しては
過剰に反応するようにできているとか。

親が心配性なのも、そのためですね。

この危機意識は重要です。生命を守るためにも。

しかし、危機意識も含めて
あらゆることに対して、常に自分の感じていることは可能性の一部であり、
事実を認識するまでは、様々な可能性を内包している状態であることに
気付かないといけない。と思うのです。

人間の考える恐れの99%は現実には起こらないとも言われています。

なので、何か心配事があったとしても、
あくまでも可能性の一部であり、その他の可能性もめぐらせてみること。
それが重要だ。と思う。


また、過去に蓄積してきた「危機、心配事データベース」
というものが、誰の価値観を元に作られた物なのか?
という点も深く考えるべき要素です。

親や、世間一般の価値観をもとに作成された
「危機、心配事データベース」上で右往左往しても、
世間に感情を踊らされているだけ。

知らない間に形成させられた価値観を今一度疑うべき時代に来ています。
資本主義経済が経済の中心として機能していますが、それが本当に正しいのか?

今世界中の若者の間で「ボランタリー経済」なるものが広がりつつある。
今やアメリカの学生の就職希望ランキング1位はNPO法人だとか。

その価値観もきっと世間でつくられたものに便乗しているだけ感もありますが、
新たな価値観が構築されつつ有ります。

自分が何を大事にして物事を考えるべきか、よく考えたいと。思う今日この頃。

目指せnew価値観創造。